戦後最初にGパンを履いた子 内藤順敬・芙蓉会恩賜記念みどり園長

2012年1119 福祉新聞編集部
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 アパレルの世界では当たり前のように流行しているGパン。流行もいろいろで、色褪せ・綻びのあるものを着用する若者が多い。そのGパンの歴史をちょっと探ってみるのも頭の体操ともなる。

 

  1870年、仕立屋ヤコブ・デイビスがリーバイス社のキャンバスで仕立てた堅牢なパンツ=ズボン。これが当時ゴールド・ラッシュに湧いていた労働者に大好評になった。本人は個人特許申請の資金がないので、リーバイス社と共同で特許を獲得。以来、労働者の堅牢作業着として、藍色ズボン=ブルー・ジーンズ=Gパンが労働者界に定着した。

 

 これが1953年のマーロン・ブランド出演「乱暴者」や、1955年のジェイムス・ディーン出演「理由なき反抗」でリーバイス社製ブルー・ジーンズ=Gパン着用だったので、またたく間にファッション界で大流行した。日本で最初に輸入したのが1956年。東京青山の栄光商事と言われる。Gパンが米国で誕生してから86年後だった。(Wikipediaより)

 

 しかし、これより先の昭和21(1946)年に日本に初登場していた。ララ(LARA)物資第一便のハワード・スタンズベリー号で11月に日本に届き、これが当時の社会事業施設にも配分された。中古衣の中に子ども向きGパンが数多く混じっていたのだ。当時は食糧も衣類も品薄で、子どもたちには長ズボンなどは夢のまた夢の存在。薄手の半ズボンしか手に入らない時代だったので珍しかった。

 

 当時は児童福祉法がまだなく、救護法の孤児院や育児院などの施設の子どもに配られ、一番にGパンを着用した。丈夫で綻びが少なく、活発な子どもたちには最高だった。子どもたちが得意顔で着歩き、一般家庭の子どもたちからほしがられていた。

 

  施設に配られた物資には衣類のほかに、小麦粉、砂糖、脱脂粉乳。乳児のいる所には全脂粉乳、乳児用缶詰から医薬品もあった。スルファダイアジン(ペニシリン発見以前の抗菌薬剤)やグアニジン、駆虫剤のサントニン、カプセル入りの総合ビタミン剤など、子どもの健康に大変効果的な物資だった。当時、私が関係していた乳児施設で一人も死ななかったのは、このララ物資のおかげだった。

 

 戦後のララの日本援護活動は、在米邦人が主導し、善意の米国人、また南米在住邦人などの協力者によって昭和27年まで続いた。この有り難さは忘れられない。

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