先人たちから学ぶ
兜森和夫・大館感恩講理事

2012年1126 福祉新聞編集部
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 社会福祉法人大館感恩講の発祥は江戸時代末期の天保11(1840)年、創立以来172年が経過した。時代背景には、打ち続く天保の大飢饉による多数の難民発生・餓死者と社会疲弊があった。優れた農業技術がない当時は、東風が吹くと北日本は冷害に見舞われ、不作や皆無作に陥るのが常だった。

 

 そんな中でも秋田県は、奥羽山脈を越えて吹き下ろしてくるフェーン現象のお陰で比較的温暖であり、被害も少なかった。結果、太平洋側の南部藩(岩手県や青森県の一部)から、冷害の被災者が救いを求めて秋田県に逃れてきた。

 

 大館市は青森県と県境を接し、岩手県境からも近い立地。東北地方の一寒村だった大館町(当時)は、こうした難民を受け入れてはみたものの、死亡者は続出した。町の中心部を流れる長木川の川原には、死者を埋葬する穴堀が間に合わなかったほどだと伝えられている。

 

 その惨状を目の当たりにして立ち上がった先人が、大館感恩講の発起人だった。彼らは「大飢饉の際に再び犠牲者を出さないためには、食糧を常時備蓄して、非常時に供出することが肝要だ」と考えた。結果、新たに田畑を追加購入して米を蓄え、それを施米と称して平時でも生活困窮者に分けていた。その活動は施米だけにとどまらず、暖房用の薪炭支給、さらに就業支援の名で今の生活保護的支援にまで及んだ。

 

 予防医学という概念が定着して久しい。現在は生活習慣病対応など医学の世界では医療費を抑制する国家施策に発展しているが、当時既に「予防福祉」にも取り組んだ感恩講の先人の先見性には目を見張る。

 

 感恩講の歩みは決して順風満帆だけではなかった。法的基盤を持たない当時の活動には、自ら「田畑郷助」(田畑を耕して郷民を助ける)という法人的組織があったものの、その仕組みが存亡の危機を迎えたこともあった。戦前の食糧統制で施米停止を余儀なくされ、施米事業ができなくなったこともあった。なんといっても戦後の農地改革で所有農地のすべてを失ったことは大きかった。

 

 昭和41(1966)年、当時の大館市が廃止を予定した市立母子寮(現・母子生活支援施設)を感恩講が譲渡を受け、更に昭和45(1970)年には、3歳未満児専門保育所も開設した。共に現在は一応の社会的認知を得られているが、油断はできない。社会は刻々変化しており、福祉ニーズもまた刻々変化しているからである。

 

 幾多の危機を乗り越えて社会に貢献してきた先人に思いを致した時、私は敬意とともにその熱い思いを途絶えさせてはならないと自らに言い聞かせてきた。地方都市で住民福祉を担ってきた感恩講の伝統を守り、更に発展させて地域の福祉ニーズに応えていくべき使命を課せられた自分がいる。今、私があるのは諸先輩のお陰だと感謝しつつ、それに報いなければならないと念じている。

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