桜の井戸

2013年0930 福祉新聞編集部
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 千代田区永田町の憲政記念館の南庭外にある。江戸時代初期、この地は熊本藩主、加藤清正の居住地。1632(寛永9)年に彦根藩井伊家の上屋敷となり、明治期に至る。この表門外に井戸はあった。

 

 井戸は清正が掘ったと伝えられており、縦1・8㍍、横3㍍の山連式の釣瓶井戸で石垣で組んである。一度に桶3杯の水をくむことができて、江戸城を訪れる通行人に豊富な水を提供した。

 

 江戸名所図絵に絵入りで紹介され、広重の東都名所、外桜田弁慶桜の井(天保14年)にも描かれている。1860(安政7)年3月3日、大老、井伊直弼がこの井戸の脇を通って登城中に桜田門外で水戸浪士たちに暗殺された。

 

 1968(昭和43)年、道路工事のため交差点内から原形をとどめたまま、10㍍離れた現在地に移設された。江戸の名水には桜の井戸のほかに麻布善福寺の柳の井戸がある。

 

 直弼は幕末期に幕政を担った政治家。兄直亮の養子となり、彦根藩35万石の藩主を継ぐ。藩政改革で実績を上げ名君といわれた。

 

 当時、外国船の来航が相次ぎ幕府に開国を迫った。その結果、開国論と攘夷論が沸騰。折から13代将軍家定に子がなく、水戸藩、徳川斉昭の子一橋慶喜を立てる一橋派と、紀伊の徳川慶福を立てる南紀派が対立。直弼は南紀派に推されて大老職に就く。勅許を得ず独断でハリスと通商条約を結び、慶福を将軍後継とした。これに反対する大名、志士はこの処置を非難し、反対運動を繰り広げた。

 

 直弼はこれを弾圧し、公卿、諸侯、役人、志士にいたるまで一掃。いわゆる安政の大獄を起こす。それに憤慨した水戸浪士たちに襲われ、彼は一命を落とした。(松)

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