塙保己一和漢講談所跡

2013年1028 福祉新聞編集部
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 塙保己一は埼玉県本庄市児玉町保木野に生まれた。塙は師である雨富須賀一の本姓を用いたもの。出自は荻野氏で近世に帰農したといわれる。

 

 7歳で失明。掌に字を書いて文字を覚え、匂いをかいで草花を見分けるすべを知る。15歳、1760(宝暦10)年、学問の道に進むべく江戸に出て、永嶋恭林の屋敷に身を寄せる。つてを頼って雨富須賀一検校に入門する。当時、検校は盲人の最高位、当道ともいわれ、盲人の官位を決定した。

 

 入門はしたが盲人の専業であった金貸し、按摩、鍼、音曲は苦手であった。しかし雨富検校は彼の国学、漢学の才を認め、各分野に当時最高の師を用意する。国学、和歌を萩原宋固、漢学、神道を川島貴林、法律を山岡 明、医学を品川東禅寺、和歌を閑院宮に学ばせる。1769(明和6)年には賀茂真淵に入門、記紀など六国史を学ぶ。

 

 1775(安永4)年塙保己一を名乗り、1783(天明3)年、検校の位に就く。この地は保己一が幕府に借用を願い出て和学講談所を開設した場所。そして群書類従の編纂を決意する。

 

 これは、日本における古代からすべての文献、古書、史料を集めて編集しようという遠大な計画で幕府はもとより諸大名、寺社など多くの人の協力を必要とした。正編は25部、1270種530巻660冊に及び、後世の歴史学、国文学に多大な影響を及ぼした。歴史資料の編纂にも力を注ぎ、この作業は現在も続いて東大史料編纂所の出版した大日本史料となっている。1821(文政4)年、総検校となり、76歳で死亡。

 

 4男忠宝は伊藤博文、山尾庸三に暗殺されたといわれている。忠宝は老中安藤信正の命によって幕府の外国人待遇の式典を調査していたが、伊藤らが孝明帝を廃するため「廃帝の典故」を調査していると誤解してことに及んだ。(松)

 

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