江戸城外堀跡 

2013年1111 福祉新聞編集部
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 江戸城には外桜田門、馬場先門、和田倉門、大手門、平川門、竹橋門、清水門、田安門、半蔵門などに囲まれた内堀がある。その外に牛込見附、市ヶ谷見附、四谷見附、赤坂見附、虎の門、幸橋門、数寄屋橋門、鍛冶橋門、常盤橋門に至る外堀と、神田川を堀として小石川門、昌平橋、浅草門を経て隅田川に至る外堀があった。そのほとんどが明治時代に埋め立てられたが、現在でも市ヶ谷見附、赤坂見附、常盤橋門の付近に、その名残をとどめている。

 

 地下鉄虎ノ門駅を文部科学省方面の出口に向かうところに外堀の石垣が遺構として残され展示されている。これと道路を隔てた商船三井ビルの前に外堀では唯一隅櫓が建てられていた石垣の土台が史跡として残されている。この二点を結んだ線が外堀の内側の石垣で内藤家(延岡)の上屋敷と隣接していた。

 

131111y石垣の土台

 

 この石垣の工事には、毛利高直、池田輝興などの大名がかかわっており、石に刻印が残されている。

 

 江戸城の門は22の外郭門と14の内郭門があったが明治時代に多くは破却された。虎の門も外桜田門など内郭門と同様の堂々たる桝形門で四神のうち西方を示す、白虎に由来するといわれている。小田原道を守る拠点であった。

 

 大正12(1923)年12月29日に摂政宮狙撃事件、いわゆる虎の門事件が発生した。大正天皇の摂政となられていた皇太子裕仁親王(昭和天皇)が自動車で虎の門に差し掛かったところ群衆の中から一人の青年が飛び出してステッキに仕込んだ銃で発砲。車の窓ガラスを破損させた。

 

 直ちに青年は憲兵、警官に逮捕された。青年の名は難波大助、山口県選出の代議士難波作之助の次男であった。この事件で山本権兵衛内閣は総辞職、警視総監湯浅倉平、警務部長の正力松太郎が懲戒免官、父親は自ら閉門とし食を断って死期を早めた。

 

 関東大震災時にアナーキスト大杉栄が憲兵隊に殺害されたことに憤慨してのことであった。本人は大逆罪で刑死した。(松)

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