尾崎行雄 憲政記念館

2014年0114 福祉新聞編集部
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 尾崎行雄は1859(安政5)年12月に相模国又野村(相模原市)に生まれた。父・行正は漢方医。1874(明治7)年慶應義塾に入学。福沢諭吉は学才を認め最上級で学ぶことを勧めるが退学。福沢に大島圭介への紹介状を書いてもらい工学寮(工部大学校)に入学する。

 

 在学中、反薩摩の論文を曙新聞に投書。好評を得ると、これを機に1年足らずで退学。1882(明治15)年立憲改進党の創立に参加する。翌年、東京府会議員に立候補、最年少の議員となる。

 

 1890(明治23)年第1回衆議院総選挙に父親が余生地とした三重選挙区から立候補して当選。

 

 1903(明治36)年から1912(明治45)年まで10年にわたり東京市長を務めた。高峰譲吉の協力を得てワシントンのポトマック河畔に2000本の桜を贈る。

 

 第1次世界大戦(1914~18年)後の欧州視察で戦禍の悲惨さを実感、対外強硬路線を改め、一転、軍縮論者となる。それまで、普通選挙に消極的であったが、促進運動に参加、婦人参政権運動(大正12年)を支持、治安維持法(大正14年)に反対するなど軍国化に抵抗し、議会制民主主義を擁護する立場をとる。ために政界では次第に孤立し、30年間、無所属議員を通す。

 

 1929(昭和4)年浜口雄幸内閣が発足。政党政治は頂点を極める。しかし、1930(昭和5)年11月浜口は東京駅頭で狙撃され翌年死亡。1931(昭和6)年満州事変が勃発。1932(昭和7)年に5・15事件で犬養毅首相が暗殺され政党政治は終焉する。1936(昭和11)年には2・26事件が発生。

 

 近衛文麿内閣が成立すると1940(昭和15)年9月、日独伊三国同盟が締結され、10月には大政翼賛会が結成される。さらに1941(昭和16)年1月に治安維持法の全面改定がなされる。同10月、東条英機内閣が成立するや尾崎は上京することもなかった。

 

 それでも1942(昭和17)年の第21回衆議院総選挙では非推薦で出馬し当選を果たす。その折、田川太吉郎の応援演説で翼賛選挙を批判して「売り家と唐様で書く三代目」の発言が昭和天皇を揶揄するものとして1943(昭和18)年不敬罪に問われる。

 

 戦後、本人は政界引退を決意するが選挙民は無断で推薦し、当選させ続けた。

 

 1953(昭和28)年、吉田内閣のバカヤロー解散による総選挙で落選。政界を引退し、翌年死去。

 

 議員勤続年数63年、当選25回、最高年齢議員95歳はいずれも日本記録。号は学堂から愕堂を経て咢堂。この銅像(写真)は憲政記念館(昭和45年完成)にある。記念館は尾崎記念会館(昭和35年完成)をもとに建設されたもの。銅像は1950(昭和25)年米国の日本問題審議会に招かれた時、帰路ハワイで別れを告げる姿。朝倉文夫の作。(松)

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