江藤新平遭難の碑

2013年0603 福祉新聞編集部
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 江藤新平は1834(天保5)年佐賀に生まれた。下級武士出身であったが藩校・弘道館に学ぶ。

 

   1862(文久2)年脱藩して上洛、木戸孝允らの知遇を得る。帰藩して、5年間の蟄居を命じられるが、34歳で藩政に復帰。ついで1868(慶応4)年、江戸開城とともに新政府に出仕、官吏として江戸安定に尽力する。1870(明治3)年鍋島直正は新平を佐賀に戻して藩政改革にあたらせた。才能なきものは家老層から足軽層まで上下を問わず厳しく接する。再度、上京して新政府に出仕するが、同年12月佐賀藩の下級武士に虎ノ門で襲撃される。

 

   1871(明治4)年岩倉具視に答申書を提出。三権分立、郡県制、四民平等制度を提言。1872(明治5)年、司法卿に推されるや、判検事制、明法制(法律作成)、代言人制、裁判所の設置、司法と裁判所の権限の明確化を図る。

 

   しかし、次第に大久保利通との確執が深まり、岩倉訪欧使節団が派遣されている間に、薩長勢力を排除する行動に出る。警察権を大蔵省から司法省に移す。同時に長州閥の山縣有朋にかかわる山城屋事件では、山縣は陸軍大臣を辞任。井上薫大蔵卿は尾去沢鉱山事件で辞任。

 

   その後、西郷の征韓論を支持、1873(明治6)年西郷、板垣、後藤、副島とともに下野、佐賀に帰郷すると佐賀の乱の首領に推され、大久保率いる政府軍に敗れる。鹿児島の西郷を頼って武装蜂起を促すが入れられず、上京して岩倉に意見陳述を試みようとするが、その途上、高知県甲浦で捕縛される。佐賀に連れ戻され斬首、梟首となった。1874(明治7)年4月13日、40歳であった。

 

   1889(明治22)年大日本帝国憲法発布の大赦で賊名を解かれ、贈正四位。この碑は1916(大正5)年6月の建立であるから名誉回復後のことである。額題は「懐旧表情」。土佐出身の政治家、土方久元の手による。碑文は兵庫県たつの出身の官僚、股野琢の起草。(松)

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