近衛篤麿と霞山会館

2013年0715 福祉新聞編集部
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 近衛篤麿は、号を霞山と号した。1863(文久3)年京都に生まれる。近衛家は五摂家筆頭の家柄で、姓は藤原。父は忠房、文麿は子供。1885(明治18)年からボン大学、ライプツィヒ大学に学ぶ。帰国後、貴族院公爵議員。のちに議長を務めた。

 

   藩閥政治には常に批判的な立場をとった。その後、アジア主義を唱え、1901(明治34)年、上海に東亜同文書院を設立する。東亜同文書院は清末における日本人の高等教育機関。給費生制度もあって大陸に志をもつ山っ気のある剛胆な学生が多く集まった。卒業生は外交官、政治家、学者など多岐にわたる。石射猪太郎外務省東亜局長、小谷節夫衆院議員、山本熊一日米開戦時の北米局長、大東亜省次官、武藤嘉文通産相、外相など。

 

   敗戦に伴い、東亜同文書院は廃校。愛知大学が設立され、教員、学生、資料が収容された。霞山会が運営する赤坂の東亜学院中国語学校が東亜同文書院の名残を今にとどめている。

 

   霞山会館の名称は篤麿の号に由来する。1928(昭和3)年に霞山会館が竣工、これを建て替え1961(昭和39)年に霞山ビルが建設される。さらに2007(平成19)年コモンゲートビル西館が計画されることにともない霞山会は霞山ビルを取り壊し、区分所有者として同ビル37階に入居した。(松)

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