下町の母子の中で 吉見 静江① トンネル長屋買い取る  

2014年0210 福祉新聞編集部
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天に伸びる東京スカイツリー。手を伸ばせば 届くよう=興望館保育園庭から 円内は静江

 貧しい人たちと生活を分かち、暮らしや心を支えるセツルメント(隣保館)。そのボランティア活動に生き、母子福祉に尽くしたのが吉見静江(1897~1972)だ。児童施設の館長から厚生省初の女性課長へ転じて制度づくりに汗を流した〝開かれた女性〟でもあった。

 

  見物人でにぎわう世界一の電波塔、東京スカイツリー(634㍍、墨田区押上=旧・本所区)。その玄関口・押上駅を地上へ上り、商店街を抜け北東へ15分ほど歩くと社会福祉法人「興望館」(墨田区京島=旧・向島区)がある。

 

 保育園(0歳~就学前の170人)や、学童クラブ、「お食事友の会」(お年寄りの昼食会)など都市型社会事業として下町に〝希望を興して〟95年。先月、3棟ある建物の耐震改修工事の竣工式が行われた。「いざというときは住民の避難所になるでしょう」。野原健治館長(61)は表情を引き締めた。

 

 今でこそ面影はないが、本所区や向島区、旧・深川区(現・江東区)にはスラム街が点在していた。明治から大正にかけ工場のある都市部へ労働者が流れ込んだためだ。くしの歯状にすき間なく並ぶ「トンネル長屋」の3畳ひと間に平均5人の家族が寝起きした。細長い通路の中央に掘られたドブ(通称・オハグロ溝)へ捨てられたゴミは、両側の屋根から落ちる雨水によって自然に外へ流れるまで悪臭を放ち続ける。不衛生で乳児死亡率は高かった。

 

 母と子に託児所を、住民に医療をーー。日本キリスト教婦人矯風会の外人部会が中心となり旧・本所区松倉町(現・墨田区東駒形)にトンネル長屋を購入したのは1919(大正8)年である。名付け親は戦後、矯風会頭になる久布白落実。北米の宣教師ら約60人は撤去した長屋の地面にムシロを敷いた幼稚園でスタート、やがてバラックで託児所、健康相談所を開いた。ライシャワー元米駐日大使(1910~90)のお母さんも尽力した一人だ。

 

 本所・深川辺りではこの前後の時期、救世軍のほか、1923(大正12)年の関東大震災で奔走した学生救護団を核に翌24年に起こした東京帝大セツルメント「ハウス」(旧・本所区。「左翼の温床」とされ38年に解散)などが活動。ハウスは児童部、法律相談部、医療部、消費組合(生協)、「民衆の大学」といわれた労働学校などを開いた。

 

 興望館の悲運の初めは暴風だった。1923年4月8日夕、落成寸前の園舎は「砂塵をまじへた烈風に吹きまくられ…大音響を立てゝ…横川尋常小学校の正門にのしかゝ」る(4月9日付の東京日日新聞)。そして、あの9月1日。前日完成した新館は献堂式を終えて間もなく関東大震災で全焼。本所区では多数の死傷者を出し、興望館には借金だけが残った。

 

 めげなかった。バラックで託児所を再建、土地の一部を社会運動家・賀川豊彦(1888~1960)に無料で貸し、産業青年教育の場にしている。やがて本所区は区画整理され、興望館も1928(昭和3)年、2㌔ほど離れた旧・向島区の現在地へ移転していく。埋立地だ。

 

 ときに、2年間の予定で外人部会が米国ニューヨーク・スクール・オブ・ソーシャルワークへ送り出した吉見静江は31歳。帰国し館長職に就くまで、あと1年の歳月があった。(敬称略)【横田一】

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