下町の母子の中で 吉見 静江② 翔んでる女性

2014年0217 福祉新聞編集部
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一日のんびり=興望館乳児部(1937年)

 静江は1897(明治30)年、東京・日暮里で生まれた。3人兄姉の二女だが、義弟妹もいた。3歳のとき母が病没、銀行員の父は亡妻の妹夫婦に彼女を託す。大事に育てられ1919(大正8)年、日本女子大英文科を卒業した。もの静かな、でも芯は強かったという。とはいえ、思春期にたまたま見た戸籍簿で養女と知り、衝撃を受けたと友に告白している。

 

 時代は「大正デモクラシー」。第1次世界大戦後の不況下、人びとは普通選挙法など自由の空気を求めた。前回触れた東京帝大セツルメントもその一つといえよう。

 

 一方、良家の子女は家庭へとの気風は強く、静江の大学同級生40人のうち就職は2人だけ。静江は卒業前年の1918年に米騒動の震源地となった富山県の県立女子師範学校兼付属高等女学校の英語教師へ。が、旧弊になじめず体を壊して1年で辞職している。

 

 その後、日本女子大、埼玉県立川越高女へと移り、この間、恋愛し長男を産んだ。しかも未婚の母で。「あの時代の翔んでる女性」。彼女の縁者や福祉史研究者はこう評した。

 

 川越高女も病気のため半年ほどで辞し、セツルメントに熱心な宣教師らに日本語を教える日本語学校に勤めた。このころキリスト教に入信したが、疑問を抱く。「外国人という迂遠な道を介さず、同胞が手を差し伸べるべきでは」。共感した宣教師らのカンパでニューヨーク・スクール・オブ・ソーシャルワークへ渡米したのは30歳の1927(昭和2)年秋であった。

 

 当時米国ではジェーン・アダムズ(1860~1935、31年ノーベル平和賞受賞)によるシカゴ市スラム街のセツルメント「ハル・ハウス」などが知られていた。慈善から社会事業へ変化する息吹や経営法を、静江は2年間学んだ。戦後、それが厚生省の仕事へつながるとは考えもしなかったろう。

 

 帰国した1929年、彼女を待っていたように洋式2階建て本館が完成する。保育所、乳児部や給食、聖路加国際病院などの医師・看護師の協力をえ、治療費を「払わないでもよい」「びっくりするほど安い」「しっかり取る」患者に分けた診療、公衆衛生学習や政府払い下げ米の廉売(統制のため39年中止)などを立ち上げていった。静江は息子と職員宿舎に住んだ。

 

 隅田川のゼロメートル地区は、紡績工場などで日雇い仕事をする貧困家族であふれていた。ある日の夜間診療。やつれたお母さんに静江は声をかけた。メリヤス工場で働き、4人の子を育てているという。「ぜひ休養なさい」。

 

 また過労ゆえ齢より早く老けがちな母親を巻き込んで多摩川河原のキャンプを実施(32年)。奥さん方の浮かべる笑みに、「オレたちも頼みます」と父親から声が上がったという。レクリエーションの走りだ。支援に際限はない。

 

 「対応の早い人でした。70人も患者がきた晩もありました」。戦前の神学生時代、興望館に住み込んで働いた瀬川和雄・日本基督教団引退牧師(93)=元厚生省職員=は振り返った。(敬称略)【横田一】

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