三宅坂の今昔 渡辺崋山、寺内正毅

2013年1216 福祉新聞編集部
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三宅坂交差点の裸婦像

 半蔵門から桜田門に至る坂道は江戸時代から三宅坂と言われてきた。ここに田原藩(三河・愛知県濃尾半島)三宅家の上屋敷があったためである。田原藩は、れっきとした譜代大名で1万2000石ではあったが、城持ち大名でもあった。しかし家臣が多く財政は常に逼迫していた。

 

 渡辺崋山は、この上屋敷で1793(寛政5)年9月16日に生まれた。上士の出ではあったが、父親が養子であったが故に禄を召し上げられ12石足らずであったという。幼少時極貧の中で育った崋山は、弟、妹が奉公に出されるのを見ている。18歳で昌平校で佐藤一斎に朱子学を学び、20歳代で谷文晁に画を学んだ。特に画の才能が開花して生計を支えるまでになる。

 

 後年、家老となり、遭遇した天保の大飢饉では食糧備蓄庫(報民倉)を用意、「凶荒心得書」を普及させて藩内から一人の餓死者も出さなかったことで幕府から表彰されている。

 

 晩年に至り、門人であり知人であった江川英龍(太郎左衛門)と目付の鳥居耀蔵との海防をめぐる意見対立から、当時の文化人サロン尚歯会のメンバーの髙野長英、小関三英などと蛮社(蘭学者の集まり)の獄に連座した。折からモリソン号(アメリカ商船)事件が発生。日本人漂流民7人をマカオから運んできた船を幕府が砲撃、打ち払ったことを批判して崋山は「慎機論」を著した。幕府や鳥居はこの点をつき陪臣の身で国論に容喙したとして蟄居を命じた。

 

 崋山は松崎慊堂など多くの知人の助命嘆願にもかかわらず、田原藩内、池の原屋敷で1841(天保12)年に切腹。

 

 三宅藩上屋敷は、明治以降、国有地となっていたが、戦後はGHQの将校宿舎のパレス・ハイツとなっていた。昭和40年代に返還後、最高裁判所、国立劇場が建設された。

 

 その三宅坂交差点の三角地帯に三体の裸婦像がある。1950(昭和25)年に電通が創立50周年を祝って建設したもので、東京芸大の菊池一夫の手による。

 

 しかし台座と像が何ともアンバランスである。それもそのはずで、この台座の上には、かつて大正期の軍人政治家、寺内正毅(1852年生)陸軍大将の騎馬像がのっていた。寺内は長州閥で陸軍大臣、総理大臣を歴任し、頂点をきわめた。

 

 寺内は師団長時、脚気の原因論争でイギリスで医学を学んだ海軍軍医の髙木兼寛のビタミン不足説を正しいとして支持。ドイツ医学を学んだ陸軍軍医総監、石黒忠悳や医務局長、森林太郎(鷗外)の細菌説を排した。日露戦争では3万人の将兵が脚気で死亡している。後年、鷗外が石黒の功績を顕彰して軍医学校内に銅像を建設する申請をしたが寺内は拒絶した。

 

 寺内像は戦時中に国に供出され、その原型は井の頭彫刻園3号館に石膏着色像として残されている。作者は長崎原爆の平和記念像を作った北村西望。  (松)

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