下町の母子の中で 吉見 静江③ 子どもを守れ

2014年0224 福祉新聞編集部
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沓掛学荘のオープンハウス。子どもと外国人宣教師らが駆けっこで興じた=1940年夏

 1931(昭和6)年の満州事変から45年の太平洋戦争までを「十五年戦争」とひとくくりする言い方がある。終戦2年後に厚生省保育課長へ任ぜられるまで勤めた興望館長の18年間は、静江にとって「生めよ殖やせよ国のため」(39年)の「健兵健民」づくりと重なる年月でもあった。

 

 米英とのいさかいは、北米の宣教師らに支えられる興望館に打撃だった。軍靴の音が高まるにつれ、理事21人のうち16人いた外国人理事は交換船などで一人また一人と帰国していく。日本キリスト教婦人矯風会の外人部会が解散する41(昭和16)年春までには誰もいなくなった。キリスト教関係者はスパイ視されるなど排外主義は強かった。

 

 しかし、外国人理事は二つのプレゼントを残してくれた。館の敷地に建てた館長住宅(41年)。そして長野県軽井沢に購入した常設キャンプ場「沓掛学荘」(40年)だ。

 

 「なにを描いているの?」。ある日、園児が画用紙にクレヨンで描いた黒い帯を見て、静江は聞いた。「川」。素直な答えに静江は眉をひそめた。その昔、旧・向島区に流れていた、真っ黒く汚れた曳舟川だった(埋め立てられて現在はない)。自然を知らないのだ。

 

 「澄んだ川、青い空を教え、甘い空気を吸わせたい」。館長就任の翌年からキャンプを始めた。多摩川の河原(東京・調布市)、埼玉県飯能、静岡県御殿場などへ出かけ遊ぶ。前回触れた母子合同も。目的は健康増進。そのためにも自由に使えるキャンプ場の確保は夢だったのだ。

 

 宣教師たちは日本の商社や財団、篤志家の間を回った。当時の理事会議事録によれば、2万5000円を超える額を集めている。英国系のインターナショナルスクールの施設を入手、下町の子どもたちには別天地となった。やがて興望館にとって初の収容型施設は予想外の使い方をされていくことになる。

 

 前回登場した日本基督教団引退牧師、瀬川和雄さん(93)の話を紹介しよう。興望館のセツラーだった人だ。南方戦線から日本軍の後退・玉砕の報が届き始める43年、神学校を繰り上げ卒業、召集され、「帝都」(東京)の高射砲部隊へ配属された。短い訓練のあと、どういうわけか翌44年春、除隊に。静江に会いに行った。

 

 「東京の上空で敵機と空中戦になったとき、間違って日本機を撃ち落としてもいいんですよ」。その説明に、館長の表情が険しくなった。

 

 「アメリカの飛行機が東京へ飛んで来るっていうこと?大変じゃないの」

 

 そのころ、保育園は戦時託児所と呼ばれ、出征兵士の母子や女性の動員を支え、興望館の託児定員は約120人から約250人に増えていた。もしも空襲があったら…。静江はすぐ沓掛学荘を〝疎開の家〟とし、園児22人を送り出す。その後、疎開先のない子らで増えていく。文部省の学童集団疎開第1陣が上野駅を出発したのは44年8月だから、5カ月は早い。

 

 「あとが苦労でした」と瀬川さん。雪の残る早春、野菜はない。「興望館の近くの八百屋に頼みました。『子どもたちのためだ』と気持ちよく提供してくれた。春まで2カ月間、毎週往復しました」。

 

 農家の指導で職員や園児は学荘の敷地を開墾していったが、静江の不安は的中した。(敬称略)【横田一】

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