内幸町・樋口一葉生誕地

2014年0224 福祉新聞編集部
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 八丁堀同心は町方同心として住民に密着していたもので、南北両町奉行所に所属していた。

 

 それぞれ25騎の与力(乗馬が許可)に100人の同心が配置され、当時、人口100万人を超える江戸の街を50騎の与力と200人の同心が治安、警察の任務を担う建前であった。これではもとより不十分なので、同心は自費で5人程度の御用聞き(岡っ引き)を雇っていた。御用聞きは、さらに3人程度の下っ引きを雇っていたから総勢3000人を超える体制がとられていた。

 

 町方同心は30俵2人扶持であったから、つましい生活を強いられた。しかし屋敷が100坪与えられていたので、これを活用する。大名家の私用、下働きをする。

 

 町方のつけ届けがあることにより同じ同心でも数倍の収入があった。身なりは粋なもので、着流しに巻羽織(短く端折り、帯に挟む)、十手は房つきであった。

 

 樋口一葉(奈津)は1872(明治5)年、同心だった父、則義と母、多喜の第5子、次女として生まれた。父は甲斐国山梨郡中萩林(塩山市)の出で、農民ながら学問を好んだ。駆け落ち同然で江戸に出て、九段南にあった蕃書調所(幕府の洋学研究所)の用務員となる。

 

 金を蓄えて1867(慶応3)年、同心株を買って士分となる。明治元年、東京府の発足とともに府警視庁の吏員となった。

 

 府庁舎は内幸町の柳沢家(大和郡山)の上屋敷であったから一葉はそこの侍長屋(千代田区内幸町)で生まれた(写真)。少女時代は普通の生活であった。父、則義は一葉の文才に気付き歌人、中島歌子の「萩の舎」に入門させる。

 

 やがて、父親は副業としていた貸金業、不動産斡旋業、運送業などに失敗。1889(明治22)年に死亡する。彼女の境遇は一変する。父の借金を背負い、母と妹を抱えて極度の生活苦に陥る。

 

 結果、生涯12回の引っ越しを経験する。中島歌子の内弟子として住み込むことに始まって、本郷菊坂、下谷龍泉寺、本郷丸山福山町などに移り住む。

 

 その間、晩年の1年余の間に「たけくらべ」「大つごもり」「ゆく雲」「にごりえ」「十三夜」など次々に小説を発表する。しかし、世間の評価を得ないまま1896(明治29)年11月、24歳で結核により死去した。墓は築地本願寺の和田堀廟所(杉並区)にある。(松)

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