下町の母子の中で 吉見 静江④ ヨキ季節トナリヌ

2014年0303 福祉新聞編集部
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ララ物資に助けられ、子どもに笑みも=沓掛学荘で

東京・江東地区は1945(昭和20)年3月10日、関東大震災以来の地獄と化した。米軍による空襲だ。23万戸焼失、死傷者12万人。横を走る鉄道の線路堤が防塁となり、興望館は幸い無事だった。

 

 園にいた静江は炊き出しを指示。「まだ警戒警報中〔空襲警報より下の段階〕。火を使っちゃいけないんです」。おびえる炊事係のおばちゃんに静江は言った。「燃えるものは全部燃えたわよ」。おにぎりとみそ汁で一息入った300人の被災者は眠れぬ夜を過ごす。

 

 焼け野原にポツンと建つ本館の青い屋根は目立った。登園児はなく、静江は寒く、食料の乏しい長野県の沓掛学荘へ。ポツダム宣言を受諾して終戦を迎えたのは5カ月後である。

 

 街に戦災孤児、浮浪児があふれた。捨て子も増加。興望館はまず夜間診療所を開いた。夜食の確保は静江の役目だ。園舎を直し46年6月、保育園再開にこぎ着け、「お産の部屋」も新設。沓掛学荘はやがて戦災や一般の孤児、引き揚げ児を育てる東京都外の養護施設(現在2~18歳の定員30人)へ移行する。

 

 帰国していた外国人理事も次第に来日。米国の宗教団体などによる「アジア救援公認団体」(略称・ララ)の支援物資が届き始め、空きっ腹ゆえ、けんかする元気さえ消えた子に笑いが戻り出す。静江は、平野恒子(故人、横浜女子短大学長)らとともにララ物資配分の日本側委員だった。

 

 そのころの理事会議事録(46年4月19日)。「木々ノ若芽ハ陽ニ映エ、花ハ咲クヨキ季節トナリヌ」。平和のこだまが広がっていく。

 

 生後4カ月の子を胸に母親が館を訪れたのは、乳児の世話体制まで整っていないこの時分であった。夫は別の女性と逃げたという。「赤ん坊がいたら働けず、2人とも死ぬだけ。死んでも構いませんから預かってください」。

 

 静江は答えた。「おかあさん、明日の朝から連れてらっしゃいね」。配給制でただでも足りないミルク探しに職員は翌朝から奔走した。

 

 やがて思わぬことが起きる。きっかけは進まぬ児童対策に業を煮やしたGHQ(連合国軍総司令部)による政策拡充の勧告(覚書、46年10月)だ。

 

 厚生省は児童局を47年3月新設、米国から非行少年施設長フラナガン神父(故人)を招いて訴え、児童福祉法も12月12日に公布した。子どもは「歴史の希望」−当初の児童福祉法要綱案にはこんな字句さえあった。法案の国会提出時に消えるが、非行・虚弱児など明治以来の狭い「保護」発想から保育を公的責任とした「福祉」への画期的な転換であった。

 

 施行にあたり福祉施設の最低基準づくりを日本社会事業協会(現在の全国社会福祉協議会)が委託される。その検討部会に加わった静江へ、児童局保育課長として白羽の矢が立てられた。

 

 以前この欄でララ代表、エスター・ローズ(故人、普連土学園校長)を紹介した。彼女も一員だった興望館理事会は、大黒柱(館長)の静江を失うことに難色を示す。しかし「社会事業全体のため」と折れ、法公布から10日後、厚生省初の女性課長は誕生した。

 

 米国で2年間セツルメントを学び、英語は堪能、人脈も広い。時代の求めた人材だった。(敬称略)
【横田一】

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