<特集>
東日本大震災3年

2014年0310 福祉新聞編集部
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新・マリンホームに移った大友さん(左)

 たくさんの命を奪った、東日本大震災から3年がたつ。この3年間、被災した人々にとってどんな年月だったのだろうか。被災した福祉施設の多くは再建へと歩みを進めるが、その歩調や道のりはさまざま。特集では、震災と原発事故により生活が一変した福祉サービスの利用者や震災に向き合い続ける関係者の姿を取材した。「私たちにとって、震災って終わってないんです」という言葉にも出会った。被災地からのメッセージのように感じた。4年目も震災を思い歩みたい。

 

「忘れねえさ」 特養再建  分散避難は終わり

 

 宮城県岩沼市にあり、津波で全壊した特別養護老人ホーム赤井江マリンホーム(小助川進施設長)が今年1月24日、再建した施設の落成式を迎えた。津波による利用者・職員の犠牲者を一人も出さなかったマリンホームにとっての避難生活も終わった。

 

 「長かったね。皆さんにずいぶん世話をかけ、もったいないことをしたなあ」。避難先から新施設に移った大友とらよさん(99)は、こう話す。4カ所に及んだ避難先を問われるとスラスラ答え「忘れねえさ」。

 

 14時46分に揺れ始めたあの日、デイサービスを含む利用者96人、職員48人の計144人が1・5キロメートル離れた仙台空港に避難した。マリンホームは沿岸からわずか250メートルのところにあった。

 

 ピストン輸送に要した時間は45分。最後の組が空港の2階に上がって2~3分後に浸水が始まり、あちこちで悲鳴が上がった。

 

 その後の避難先は他法人の施設・事業所を含めて転々とした。

 

 施設を運営する社会福祉法人ライフケア赤井江には、被災しなかったグループホームが二つある。しかし、難を逃れた利用者全員は受け入れきれなかった。職員とセットでの分散避難はこうして始まった。

 

 

㊤海沿いにあった旧・マリンホーム。奇跡的に津波に よる犠牲者が出なかった(11年5月)

海沿いにあった旧・マリンホーム。奇跡的に津波による犠牲者が出なかった(11年5月)

 

 

完成したばかりの新・マリンホーム(14年2月)

完成したばかりの新・マリンホーム(14年2月)

 

 

他法人での避難

 

 避難先の一つは同市社会福祉協議会のデイサービス「さとのもり」。3・11の当日は同社協職員がマリンホームを気遣って駆け付け、利用者を仙台空港に送り届けた。とっさの決断が奇跡の脱出劇をサポートした。

 

 「翌日、空港に出迎えに行ったが道はヘドロだらけ。21人が20日までデイに避難したが、水が出ないのでご不便をかけた」(相談員の古川政孝さん)。

 

 4月からの9カ月、14人の利用者が身を寄せたのは隣の柴田町にオープンしたばかりの特養ホーム「第二常盤園」。二つの4人部屋に7人ずつ入った。

 

 同園職員の佐藤佳奈さんは「マリンホームの職員さんは仮眠をとる場所もなく、相当つらかったはず。ここでの最後の日は涙で見送った」と振り返る。

 

 実際、マリンホームの職員は耐えた。避難先が分かれるということは、職員が分散するということ。一人当たりの夜勤の頻度は増す。「辞める職員が一人も出なかったことが誇り」(介護課長の岡﨑さとみさん)という。

 

新たな段階に一歩

 

 福祉避難所のスペースも持つ新施設は新たに購入した同市内の土地に完成。3・11当時の利用者50人のうち、移ってきたのは26人。残る24人はこの3年間で亡くなった。

 

 津波からは逃れた。移転に伴うダメージも最小限に食い止めようと職員は歯をくいしばった。それでも3年という歳月は長かった。

 

 新規入所は止まり、利用者は時とともに減っていった。事業収入減、津波に流されたリース品の債務整理、新施設の土地探し…と難題が立ちはだかった。

 

 「一歩前進したかと思えば三歩後戻りの繰り返しだった」と振り返る小助川施設長。「ここまでは再建を目標に頑張ってこられたが、これからはケアを再構築する段階に入る」と話す。

 

 3年の歳月を経て、マリンホームは新しい一歩を踏み出した。

 

 

(※特集では、このほか「原発避難の障害者」「全壊した特養の職員」「福島での循環型農業」「災害派遣福祉チーム」を取り上げました)

 

 

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