下町の母子の中で 吉見 静江⑤
保育の時代です

2014年0310 福祉新聞編集部
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子ども、職員と静江(右端)。 晩年を過ごした=茅ヶ崎學園

 興望館長を辞めたあと、静江は杉並区で暮らした。養母、長男夫婦や孫との団らん。和服姿で通勤した。入省を説得した故・葛西嘉資厚生次官らに通訳として重宝がられる一方、男性中心の「霞が関」官僚社会で意地悪も受けたらしい。

 

 「シンは強く、なかなか曲げぬ意志で目的へこぎつけていく。『これからは保育の時代』とも言っていました」。後年、虚弱児施設「茅ヶ崎學園」(神奈川県茅ヶ崎市)の設立を支えた大船ルーテル教会の松川和照牧師(80)はいう。

 

 厚生省保育課長、その組織変更後の母子福祉課長と、静江の官職は11年7カ月(1947年12月~59年7月)に及ぶ。GHQ(連合国軍総司令部)の影響下とはいえ、かくも長くほぼ同じポストにいたこと自体、才知の証しと言えなくもあるまい。

 

 静江は保育指針づくりや施設運営、保母の養成、「保育に欠ける」基準、保育料問題などに取り組んだ。児童福祉法公布の1947(昭和22)年、全国の保育所は公私立あわせて1618カ所、入所児童は約16万4000人。

 

 しかし、働かねばならない戦争未亡人、海外引き揚げ家族、戦後のベビーブーム(1947~49年)などで保育ニーズに火がつく。

 

 とくに昭和20年代末~30年代の急増ぶりは驚異的だ(表参照=フレーベル館「戦後保育史」より。数字は保育所数)。保育所はあふれ、待機児も多かった。

 

140310保育所数

 

 一方、財政は緊迫、54(昭和29)年ごろから社会保障関連予算は削られていく。国の補助率圧縮で保母首切りなどが起こっている。

 

 保母らは童謡を歌いながら国会や厚生省、大蔵省へ陳情(「童謡デモ」57年1月19日)などを繰り返した。静江の胸になにが去来したか。知る術はない。

 

 62歳を迎えて間もなく、彼女は厚生省を去る。「国民はいま気軽に保育所を使う。難しい時期だったが、その制度の骨格を彼女は整えた」。福祉制度史を研究する寺脇隆夫・元浦和大学教授(75)はこう評価する。

 

 リタイア後の拠点は茅ヶ崎學園だ。そのころ少なかった、児童福祉法による虚弱児施設である(その後、児童養護施設へ変更。定員60人)。住宅地に変貌しているが、木々を渡る湘南の海風で、恵まれない、体の弱い子を育てたいとの願いだった。

 

 故エスター・ローズ(普連土学園校長)は初代理事長、葛西・元厚生次官も理事として寄付集めなど支援を惜しまなかった。

 

 実は役人生活中、静江は長男や養母と死別している。深い落胆を癒やすように退職2カ月後、学園は子ども1人とネコ1匹で始まった。その一隅で長男の嫁や小学生だった孫で現・理事長の吉見哲さん(64)らとの日々を過ごした。いま2〜18歳の58人が10戸(世帯)に分かれ、家族同様に暮らしている。

 

 哲さんは思い出す。「いつも子どもの中にいて、ニコニコしている優しいおばあちゃん。いい人でした」。

 

 最善を尽くし、子どものために駆け抜けた生涯を72(昭和47)年1月、心不全のため閉じた。享年74歳。(敬称略、おわり)

 

【横田一】

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