ハンセン病者の母 ハンナ・リデル① 悲惨な患者の姿目撃

2014年0324 福祉新聞編集部
    • このエントリーをはてなブックマークに追加
本妙寺にある加藤清正の廟。

 明治維新後、大日本帝国憲法(1889年発布)によって信仰の自由が認められたことでキリスト教の宣教師がどっと来日した。1891(明治24)年、イギリスからはCMS(英国聖公会宣教協会)所属の女性宣教師が5人も一度に日本の土を踏んだ。その中にハンナ・リデルはいた。35歳だった。

 

 5人はしばらく大阪に滞在した後、それぞれ赴任地に向かい、ハンナは同僚の26歳のグレイス・ノットと共に熊本に赴任した。

 

 ハンナは、熊本市中心部に用意されていた住宅で同僚と共同生活をしながら、午前中は日本語の勉強、午後は第五高等学校(現熊本大学)の生徒たちに英会話の講義を行い、各地へ伝道にも出かけていた。

 

 熊本に着いて間もない同年4月、悲惨な現実を目撃する。熊本城の北西約1・5㌔の中尾山にある本妙寺の参道に、物乞いするハンセン病患者の群れがいたのだった。

 

 『DAILY LIGHT』(日々の光)というお勤め用の愛読本の4月3日のページの頭に鉛筆で「本妙寺 初めて癩者をみた」(Honmyoji‐FirstSaw  Lepers)と記入した。

 

ハンナ・リデル

ハンナ・リデル

 

 1902(明治35)年12月、大日本婦人衛生会例会で語った目撃談は生々しい。

 

 「空は誠に麗らかに晴れ渡り、道路の両側には3、4町も続いて桜の花が今も盛りと咲いている。その麗しき花の下には何物があるかと見ますれば、それはこの上もない悲惨の光景で、男、女、子どもの癩病人が幾十人となく道路の両側にうずくまっておりまして、或は眼のなき、鼻の墜ちたる、或は手あれども指なく、足あれども指が落ちていると申すような次第で、そんな病人が競って、自分の痛ましき病気の有様を態々と、其の寺に参詣いたす人々に見せて恤を乞うて居ました」(「リデルとライトの生涯〜ユーカリの実るを待ちて」内田守編)

 

 ノルウェー人医師、アルマウェル・ハンセンによる病原菌の発見は1873(明治6)年、アメリカで新薬プロミンが発見されたのは1941(昭和16)年。それまでは治療法が不明だったため、長い間、患者は病苦にあえぎ、さらに差別に苦しんだ。

 

 ヨーロッパでもハンセン病はあり、中世のころには患者に対する迫害もあった。近世になると下火になっていたなどの違いか、来日した宣教師たちの目には患者を放置している日本の現実が悲惨に映ったようだ。

 

 本妙寺は、戦国時代の武将・加藤清正の遺言によって建てられた寺で、武将清正は南無妙法蓮華経を旗印として戦場を馳駆したほど法華経に帰依していた。立派な廟には清正が眠っている。

 

 清正の霊力によって不治の病も治るとの風説が広まり、廟の周りにはハンセン病患者をはじめ、さまざまな病を持つ者、生まれながらの障害に悩む人たちがご利益にすがろうと集まっていた。病気や障害がない人たちも参詣に訪れ、小銭をめぐみ、積善を喜ぶ者も多かった。(敬称略)【若林平太】

    • このエントリーをはてなブックマークに追加