ハンセン病者の母 ハンナ・リデル② 病院建設へ善意集まる

2014年0324 福祉新聞編集部
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完成した「回春病院」

 ハンセン病患者の群れに衝撃を受けたハンナは、再び本妙寺に出向き、患者に接し、病気の進行の様子や悩みを聞いた。そして患者の救済が使命であり、そのためには病院が必要だと確信を深める。

 

 しかし、上司のブランドラム牧師は伝道を重視し、病院建設には消極的だった。ハンナは引っ込まない。牧師が長い休暇でイギリスに帰国した後、熊本に来た九州教区トップの主教に、熱心に病院建設を訴え、さらにCMS(英国聖公会宣教協会)にも手紙を送り資金提供を求めた。これに対し、CMSの反応は冷ややかだった。

 

 熊本の反応は違った。五高での英会話講義のほか茶話会を開くようになったハンナは、五高校長の嘉納治五郎や教授たち、県庁の役人らの間に人間関係を広げており、病院建設への理解者が増えつつあった。

 

 特に五高の英語教授、本田増次郎とハンナから英語を学んでいた陸軍省軍用電信三等技手で熊本鎮台付きとなっていた金沢久の二人は心強い支援者となっていた。

 
 1893(明治26)年3月、行動の人・ハンナはCMSの年次総会に論文を提出し、熊本にハンセン病の病院を建設する考えを発表した。親戚や知人にも手紙を書き、その賛同と援助を求めた。

 

 また、本妙寺で出会った元教師と他の気の毒な患者の3人のために寺の近くに小さな一軒家を買って、収容した。病院建設に向けての第一歩を踏み出した。

 

 本田教授は、静岡県御殿場市に1889(明治22)年、フランス人のテストウィード神父によって設立されていた日本最初のハンセン病療養所「神山復生病院」を訪問するなど、病院建設に向けた調査活動をし、40人収容規模として病院の構想を立て、土地代、建築費と常駐の医師などの確保のため必要な資金は600ポンドと試算した。

 

 CMSからは病院建設の費用は出せないとの回答だったので、ハンナや同僚のグレイスたちはイギリスの教会関係者に直接、支援を訴えた。「無謀だ」「不可能だ」など耳を貸さぬ人もいたが、中には多大の敬意をもって援助を申し入れてきた人もたくさんいた。

 

 用地探しは、本田教授らの働きで、熊本市街地のはずれ、五高近くの立田山麓に4000坪の土地が見つかった。土地の取得は外国人には認められていなかったため、本田教授、金沢技手と聖公会の幹部で福岡の実業家、衣笠景徳の3人の名義で購入、設計は日本赤十字社の医師に依頼した。

 

 動き出すと早かった。1894(明治27)年に設計図ができた。第1期として診察室・薬局・事務室・礼拝室を持つ本館、男子病棟、女子病棟、医師住宅、看護婦室、炊事場、浴室、物置など10棟で計138坪。翌95年には着工、同年10月には完成した。

 

 病院の名前は、暗黒の人生に再び希望の春を回り来させなければならないとの思いから、本田教授の助言も入れて日本語名は「回春病院」と決まった。

 

 同じ時期、フランス人のコール神父も本妙寺を訪れ、ハンセン病患者の救済を決意。本妙寺近くに家を借り、修道女らとともにハンセン病患者の施療と布教を始め、1898(明治31)年には広い土地を確保、診療所(現・慈恵病院)を建設した。(敬称略)

 

 〈参考文献〉猪飼隆明著「ハンナ・リデルと回春病院」、内田守編「リデルとライトの生涯・ユーカリの実るを待ちて」

 

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