天下まつり 赤坂・山王日枝神社

2014年0407 福祉新聞編集部
    • このエントリーをはてなブックマークに追加
日枝神社の桜

 山王日枝神社は太田道灌が1478(文明10)年、武蔵国から江戸城内、紅葉山に権現(大山咋神)を移して祀ったことに始まる。

 

 徳川家康が入府後、これを整備し、秀忠の時代1604(慶長9)年の江戸城改築にあたり隼町に遷座した。1657(明暦3)年、振袖火事で社殿を焼失、現在の星が丘に移った。星が丘は江戸城の南西に位置し、裏鬼門にあたる。

 

 江戸鎮護と徳川家の産土神として歴代将軍が崇敬した。氏子は南は芝、西は麹町、東は霊厳島、小綱町、堺町、北は神田に至り、江戸の繁華街はほとんど含まれている。

 

 祭礼は天下まつりと称され、江戸城内に行列が入ることが許された。行列は半蔵門から入って紅葉山で将軍の上覧を受け、竹橋門から城外に抜けた。

 

 東京の祭りは今でこそ、神輿が主流であるが、これは明治末からのことで江戸期は山車が主流だった。

 

 山車は8㍍ほどの高さがあり、頂点には猿などの人形がかざられ、20〜30人ほどの担ぎ手を要した。これが45台並んだ様は、まさに壮麗の一語につきた。日枝神社の氏子の町数は160余町を数え、町々は10年に一度の年番が回ってきた。

 

 山車の順も決まっていて、一番は南伝馬町の猿、二番は大伝馬町の諫鼓鶏、三番は麹町の猿となっていた。猿は日枝大神のつかいとして尊重されていた。

 

 遅れて神田明神も1688(元禄元)年に江戸城内通過を許され、天下まつりとなった。5代将軍、綱吉の出身が甲府家で屋敷が神田にあり、神田明神の氏子とされたからである。

 

 元禄末には中断するが11代将軍、家斉の時代に再開する。神田明神の山車の数は35台と決められていた。

 

 その後、日枝、神田明神は交互に祭を行うこととなった。

 

 山王日枝神社の社殿(旧国宝)は戦時中、爆撃を受けて焼失。山王稲荷神社本殿のみが焼失をまぬがれた。万治元年造営の江戸初期の建造物。   

    • このエントリーをはてなブックマークに追加