大手濠緑地 和気清麻呂像  

2014年0428 福祉新聞編集部
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和気清麻呂像

 和気清麻呂は備前の人。奈良時代末から平安時代にかけての政治家。姉の広虫とともに朝廷に仕えた。

 

 折しも孝謙上皇(女帝)は、祈祷で病を平癒させた弓削道鏡を寵愛していた。これを淳仁天皇と太政大臣藤原仲麻呂がいさめると上皇は、ますます道鏡への信頼を深める結果となった。764(天平宝子8)年、仲麻呂は武力で道鏡を除こうとするが、逆に上皇は、吉備真備に仲麻呂討伐を命じる。真備は仲麻呂を討ち、清麻呂は配下となり戦功を上げる。

 

 結果、孝謙上皇は再び天皇に返り咲き称徳天皇となる。道鏡も太政大臣禅師法王となり位人臣を極める。

 

 769(神護景雲3)年、宇佐神宮の神官でもあった中臣の習宣阿曽麻呂が宇佐大臣の神託を奉上する。「道鏡を皇位につければ天下泰平となる」の内容であった。

 

 称徳天皇は、これを確認するため清麻呂を宇佐八幡宮(大分)に派遣する。しかし、その神託は「天つ日嗣は必ず帝の氏を継がしめむ、無道の人は宜しく早く掃き除くべし」であった。この奉上に天皇は怒って清麻呂を別部穢麻呂と名前を変え、大隈(鹿児島)に流罪とし、姉の広虫も備前に流した。

 

 770(神護景雲4)年、称徳天皇が崩御すると道鏡も失脚。光仁天皇に造下野薬師寺の別当を命じられ、その地で没した。

 

 清麻呂は地位を回復、権武天皇に平安遷都を進言し、自らからも造営大夫となり功績を上げる。のちに民部卿。

 

 この像は1940(昭和15)年、紀元2600年を記念して民間募金で建立されたもの。髙村光雲の孫弟子にあたる佐藤朝山が制作した。神託を奉じて宮中に参内する姿を表している。最初は皇居大手門、平川門の中間にあたる旧内務省、社会局、旧厚生省の前に立っていたが、1963(昭和38)年、地下鉄東西線工事のため、大手町一−四大手濠緑地に移転された。

 

 戦前の10円札の表には清麻呂の肖像画が、裏には猪が印刷されていた。俗称いのしし。猪は清麻呂の守護神で清麻呂をまつる護王神社(京都)、和気神社(岡山)の使いも猪である。

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