鹿鳴館跡 明治時代のあだ花  

2014年0714 福祉新聞編集部
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鹿鳴館跡の碑

 鹿鳴館(ろくめいかん)は、帝国ホテルの右隣り、旧山下町の薩摩藩中屋敷、別名、装束屋敷に井上馨の発案で設けられた国立の社交場。装束屋敷とは、琉球使節一行が将軍拝謁のため江戸にのぼった折に装束を整えるための屋敷であった。

 

 当時、明治政府は外国との不平等条約、治外法権の撤廃を外交課題としていた。これを舞踏会などで外国使節を接待して実現させようとする試みであった。

 

 設計はジョサイア・コンドル。イギリス人で明治政府の招聘教授。工部大学校で辰野金吾(東京駅の設計者)などを育て、日本建築界の基礎を作った。綱町三井倶楽部、島津邸(清泉女子大学)、古河庭園、ニコライ堂などの作品が残る。旧東大法文経教室、旧海軍省などは、いずれも関東大震災で崩壊、東京空襲で焼失した。

 

 施工は土木用達組(後の大倉組、大成建設)が請け負った。木造2階建てで、1階に大食堂、2階に舞踏場が設けられ、1883(明治16)年に竣工した。現在、跡地にはNBF日比谷ビルが建っている。

 

 鹿鳴は「詩経」にある鹿鳴の詩に由来する。賓客をもてなすの意。接待する側の明治政府の高官、夫人は洋式舞踏会でのマナーを知る術もなかった。接待を受ける外国人からは滑稽な試みとして軽蔑の対象ともなった。鹿鳴館外交は概して不評で、国粋主義者からは退廃的であると口を極めて批判された。

 

 ついに1887(明治20)年9月、井上は外相を辞任。これを機に、「あだ花」ともいえる鹿鳴館時代は終わりを告げる。

 

 1890(明治23)年、政府は鹿鳴館を宮内省を経て華族会館に払い下げた。これを1927(昭和2)年、日本徴兵保険会社、後の大和生命が買収することになるが、建物は1940(昭和15)年まで保存されていた。

 

 装束屋敷の黒門(旧国宝)は両側に唐破風造りの番所がついた豪壮なものであったが、1945(昭和20)年の空襲で焼失した。

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