渋沢栄一 ㊤ 常盤橋公園の像

2014年0901 福祉新聞編集部
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渋沢栄一の像

 常盤橋門は江戸城の大手門に通じる重要な門である。外濠にかかる橋を渡ると、この門があって現在は常盤橋公園となっている。

 

 ここに渋沢栄一の像がある。像は日本で初めての銀行、第一国立銀行の方向を向いて立っている。銀行は栄一により1873(明治6)年、海運橋のたもと日本橋兜町の東京証券取引所の隣接地に設立された。国立と言いながら民営による銀行で紙幣が発行できた。1882(明治15)年に日本銀行が設立されると国立の名が剥奪され、第一銀行となった。戦後、日本勧業銀行と合併、第一勧銀となり、富士銀行と合併して、みずほ銀行となった。

 

 渋沢栄一は号を青淵。1840(天保11)年、埼玉県深谷市血洗島に生まれた。渋沢家は苗字帯刀を許された豪農で農業のほかに藍玉作りと養蚕を業としていた。これを紺屋に売り利益を得ている。渋沢家の商業的センスは、このことによって培われた。

 

 江戸に出て千葉周作道場に入門、北辰一刀流を学ぶ。その影響もあって尊王攘夷論者となって倒幕を志す。しかし縁があって一橋家の用人、平岡円四郎の知遇を得て、慶喜の家臣となる。

 

 慶喜が15代将軍となった折、ナポレオン三世からパリ万博への招請を受ける。慶喜は弟の徳川昭武(のちの水戸藩主)の派遣を決める。栄一は勘定方随員として参加の機会を得る。

 

 1867(慶応3)年、一行29人(仏、独人6人)はアルヘイ号で横浜を出発、マルセイユに向かう。栄一は、これを機会に西欧の文明、経済の仕組みに触れ、見聞を広める。同行の杉浦譲と「航西日記」を著す。

 

 1868(慶応4)年、将軍慶喜は大政を奉還、幕府は終焉を迎える。同年11月3日、一行が横浜に帰着した時は既に明治に改元されていた。栄一は慶喜の配所である静岡に下向。帰国の報告をする。静岡に商法会所(銀行と商社を兼ねる)を設立する。像は朝倉文夫の作。

 

140901_3m界隈地図

 

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